ねむみめも

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It's ineffable.

National Theatre Live 「善き人」:境界線を書き換えずにいられるか

去年の10月に、David Tennant主演の舞台「善き人」を観た。原題はGOOD。National Theatre Liveは上映期間が短いのが難点だけど、過去に観たものはどれも心の底から観て良かったと思える演劇体験になったので、今作もどうにか時間をやりくりして劇場へ。結果、静かな衝撃を受けました。

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引用元:NTL公式サイト

あらすじ

第二次世界大戦中のドイツ。大学教授のジョンは、働きながら妻子や母のケアに努めている。家庭の悩みを吐露する相手は古くからの友人であるユダヤ人医師モーリスだったが、介護からの非現実的な逃避として書いた安楽死を肯定する小説がヒトラーに気に入られ、ナチスに入党。友人との板挟みになりながらも、意図せずして中核へと関与するようになる。

 

無意識の奥底を覗く不思議な鑑賞体験

幕が降りた瞬間に涙が目の縁に盛り上がってきて、でも泣いて済ませるのも違う気がして息を細く長く吐いた。きちんと受け取りきれていないこともいくつもあるのだろうと、頭の中がぐるぐる渦巻き出す。

とはいえ、NTLのサイトであらすじを読んだかぎりでは観た後にずーーーんと気落ちしそうだな、しばらく引きずられるかなと不安に思っていたので、そうはならなかったことにいちばん驚いた。もちろんハッピーでも爽快でもない。かといって強いメッセージをそのまま目の前に突きつけられるわけでもなく、激しく感情を振り回されるのとも違う。物語と現実の狭間でひたひたと心に沁み入ってくるような、心臓を優しく握り込まれていたみたいな……気付かぬうちに感情が湧き出して、考え込まされる作品。

簡単には言語化しがたい感情を、直接的なメッセージを使わずに掻き立てられた、そのこと自体にも心を掴まれました。ほとんどの登場人物を3人で演じ分けるキャストのお芝居がすごいし、演出もすごい。

私は「ヤクザと家族」ぶりに味わう脳内ぐるぐるレベルだった。思考の海に放り出される。すべての人がこれを観た方がいいとさえ思うが、でもこれを観て何も感じない人がいたらそれこそ絶望してしまうとも思う。

 

※ここから先は内容に触れます。

いつでも踏み外しかねない道/意図しなければ善なのか

ずーーーんとならなかったといっても、昏い気持ちがゼロということではない。

私が、そうなってしまうんじゃないかといつもうっすら恐れているものなのだ、「善き人」。

誰が見ても、冒頭のジョンは特別悪い人ではないはず。自分の特権には無自覚だけど、家事を一切できない無気力な(鬱病なのかな)妻のケア、働きながらの家事育児、自分がどこにいるかもわからないほどの状態(認知症なのかな)の母の介護が重なって押しつぶされそうな人である。その上で、自分を尊敬している利発な若い女学生とのコミュニケーションに魅入られ不倫へと発展することにはじまり、当人からしたら仕方ないと言う他ないのであろう善悪の越境が重なっていく。ほんとは仕方なくなんてない、立派な正当化であり、傲慢な無関心なんだけど。実際のところ善悪はゆるやかなグラデーションになっていることが多いし、不安定な精神状態で判断すべき材料を見失わずにいるのは簡単なことじゃない。

私にとって肝心なのは、ジョンが越境をはじめから意図していたわけではなかったということ。

自らをgoodと信じることに精神を費やして思考を放棄しているうちに、踏み越えたはずのボーダーラインは自分の現在地にあわせて書き換わる。そこにボーダーラインなんて無かったことになる。意図していなければ越境じゃないみたいに。そうしていつのまにか、取り返しのつかないほどの自己保身が完成する。私はそこに自覚的であれるんだろうか、もう境界線を書き換えてはいないだろうか。

無知も無関心も、客観的に考えれば善の根拠*1になんかならないことは明白なのにね。リアルな楽団の演奏する様にこちらの胸がぎゅっとなった直後に差し込まれるジョンのあまりに無関心な反応、恐ろしかった。

物語として眺めると、はっきりとジョンは間違っている。自分を善と信じ続けるために、引き返すことはせずいくつもの境界線を踏み越えた。でも現実において渦中にある時、境界線は必ずしもわかりやすく目に見えるかたちで存在しない。自分の正しさを疑う視点はしんどくてもどうにか手放さずにいたい。とか考えるあたり、私も善き人でありたいし、自分が善き人だと信じたい欲があるんだな〜。*2

やっぱり、観て良かった。

 

*1:ジョンは「自分はhappyだ」と言う。アンの「あなたはgoodよ」という言葉に支えられるように、あるいはそれを支えるように。観客としての私にはお粗末な論理にしか見えないけど、goodに寄りかからないhappyを確立するのも大事だな。

*2:どちらかというと悪でありたくない、というほうが正確な気もするが、これは宗教的なベースの違いなのかしら。