ねむみめも

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It's ineffable.

National Theatre Live「善き人」2回目:妄想と現実の狭間で

2024年4月下旬、夫を誘ってDavid Tennant主演National Theatre Live「善き人」最後のアンコール上映を観てきた。

その直前に、半年ほど下書きフォルダに眠らせていた初見時の感想を記事にした。ささやかながらTwitterで最終上映のリマインドをしたかったのと同時に、1回目と2回目で受け取るものがどう変化するのか、アウトプットすることではっきりさせたいと思ったからでした。

1回目、明らかに取りこぼしてるものが多いと自覚していたが、この間に心理状況の変化があったことも相まって2回目はまったく違う見え方になった。前回ぽやぽやと漂っていた思考の欠片がすっきり収斂した感がある。

現時点で日本で観るすべがないのが残念なのだが、いつか再上映や配信があることを願って、2回目の感想も記しておきます。ヴィゴ・モーテンセン主演の映画版も観てみたいな。

 

……と書いてから1年が経っていました。久しぶりに下書きを開いたら99.9%書き終えられていてのけぞっちゃった、なんでさっさと公開しなかったの、私。

いちおう、ぼんやり覚えてはいる。あまりに思考の奥の方を引っ張り出して整理する作業だったので、書いたものが意味を成しているのかいないのか、よくわからなくなった。そこにちょうど心身の不調が訪れて、ますますわからなくなったし、否定的にもなった。しんどくてぎゅっとなっていたいろんなものがすこしずつゆるんできたので、今の日付で公開しておきます。

 

以下、今回はすべて内容に触れています。

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©️Johan Persson 引用元:NTL善き人公式ページ

 

捻じ曲げられた「現実」

この作品の大きな軸として、主人公ジョンの頭の中に鳴り響く音楽がある。ジョンの脳内に流れる曲を、観客はBGMとして聴きながら観る。

冒頭、ジョンは親友であるユダヤ人医師モーリスに、「頭の中に音楽が鳴り響いて、妄想と現実の狭間にいるような感じなんだ」というような悩みを吐露する。認知症(確定だった)なうえに目もほとんど見えていない実母と、なんらかの精神疾患を抱える妻、そして当然ケアしなくちゃいけない子供3人。負担が重すぎる。それはストレスフルだよね、音楽も勝手に鳴り響いちゃうよね、とは1回目も2回目も思った。

が、不倫相手となる女学生アンとのシーンで、その解釈がちょっと通らなくなった。どう聴いてもそれってストレスから来る音楽では……ないな? ジョン舞い上がってるよね? 普通に心情を盛り上げる音楽だ。

自分で申告した通り、ジョンは現実を直視するのをやめている。その「現実」には彼自身も含まれているんだろう。大学教授の職に就き、小説も発表しているけれど、家庭のごたごたに疲弊している今の自分はほんとうの自分ではないと思ってるんじゃないか。

どうにも私には、ジョンは単なる権力欲以上に、自分(の真価)を認めてくれる人への渇望からナチスを正当化する道に突き進んでしまったように思えてならなかった。他者の痛みと自分の心の虚、天秤にかけるまでもないくらいに、虚にフォーカスしているような。

どこかで過ちの気配に気付いたとしても、自分で自分を認められない時に認めてくれる人、しかも力を持った人から離れるのはあまりに難しいことだろうな。認めてくれる人を盲信していれば、自分が認められている状態=正しい状態であると確定した世界で生きていられるもの。(偏ったタイプのスピや宗教、アイドル、その他なんでも盲信して思考を放棄してしまう現象は、正しさが明確な、答えがある状態であり続けたいがゆえなのかもしれない。それをしている限り自分は正しいと信じられる)

果てしなく他人軸なところが、想像するだに辛い。時代や立場からすると、それが普通なのかもしれないけれど。自己受容や自分への信頼って今生きている身体や心や世界を感じ取ることから生まれるように思っていて、それをシャットダウンしてるならずっと別の軸にすがって生きていかなきゃいけないんじゃないかな。最終的に「恵まれている」と言いながらも、特権には無自覚そうに見えるのもそういうところに起因するのかもしれない。

初めてドイツを脱出したいと相談するモーリスに落ち着けと諭す場面には異常事態下の正常性バイアスを感じたけれど、モーリスと会うたびに徐々に自己の正当化の比重が大きくなり、ジョンが「現実」から遠のいていくのがわかる。「水晶の夜」の前後に現れたモーリスは何度考えてみてもジョンの妄想としか思えない。あれだけ突き放しておきながら、モーリスに対しても善き人である体を保ちたいがゆえの言い訳を聞いてもらう、妄想の産物。現実に目を瞑ったことがしんしんと伝わってきて胸が抉られる心地だった。

演奏するユダヤ人たちを前にしたジョンの台詞"The band was real."で物語は終わる。私が1回目に「無関心さが怖い」と書いていたものだ。現実を見ているかのようでいて、明らかに現実を見ていない。頭の中の音楽、自分の思考や感覚が「妄想」ではなく「現実」なのだと確かめられたことに安堵している。自分の信じている正しさはやはり妄想の産物ではなくてほんとうの正しさなのだ、今から行うことも正しいのだ、という最終確認。自己保身の完成した瞬間。

「現実と妄想の狭間にいるみたい」とモーリスに相談するところから始まって、「現実を見ていない」と非難し、それでいて自分に都合の良い「現実」を作り上げて終わる。見事にブーメラン。こ、こんな綺麗にまとまってたんだ、すご〜〜〜! となりました。己の語彙の貧弱さがかなしいけど、脚本が、すごい……。1回目は思考をいろんなところに引っ張られて気が付かなかった。でもそうやって引っ張られるポイントが無数にあるのもまたすごい。どこまで計算されているんだろう。

 

異なる受容体

鑑賞後、うむ面白かったなどと当たり障りのないことを言いながらTOHOシネマズ日本橋を出て、目の前にあったタイ料理屋さんに腰を落ち着けた。とりあえずバインミーとフォーを頼んで、どうも釈然としない雰囲気の夫に感想を求めると、出てきた言葉は「シンプルに主人公がクソすぎない?」だった。それはそうだ。そうだけど! さらに、「クソだけど家族を守るためにあの選択をせざるを得ないのはわかってしまう、実際に家族が危機に晒されるかもしれない時に道徳的な選択をできるか?」と言う。おお、選択と境界線の話は1回目の私と同じところに着地する。とはいえ、早速着眼点が違った。

鑑賞中の意識として、私は「もし私がこの状況に置かれたら」、夫は「現実で家族を守るには」にフォーカスしているところからしてまず違う。ただ、しばらく掘り進めてたどり着いた最も大きな分岐は、夫は物心ついた頃から自己を肯定できているので自己を否定している心理状態の実体験がなく、一方の私は長いこと無意識下で自己を否定し続けていたという点にあった。自己評価やら自己効力感やらではなく、ほんとうに根本的なところの自己肯定の話です。自己を肯定して生きてきた夫からすると、ジョンが「ほんとうの自分を認めてくれる人」を渇望しているのではないかという私の解釈は青天の霹靂だったらしい。清々しいまでの食い違いっぷり。

食い違いはまだあった。夫は英語をほとんど解さない。よって、音声の台詞からは声のトーンといった感情の雰囲気以外の情報を得ていないし、字幕に集中する必要があって役者の表情などの情報を取りこぼしている箇所が多いはずだと言う。映画なら字幕と映像内の情報を同時にキャッチしやすいのに、演劇を演劇として(字幕前提でなく)映しているからその点はとても見づらかったそうで、私が気付かなかったポイントだった。私も音声を100%理解できているわけではないが、ある程度は聞き取っているので字幕だけに集中しなくてもいい&字幕と同時に音声でも情報が入ってくるという状態ゆえに映像にも意識を割きやすいのだと初めて気が付いた。映画の構図って奥深いねぇ、としみじみ。

そのうえ職業病で、引っかかるところがあるとすぐに「自分なら物語をどう見せるか」を考えてしまって没入しきれずにいたようだ。夫としては、モーリスの物語をもっと描写したほうが良いのではと思うらしい。(この作品は「日本人向け」ではないとわかったうえで)日本人に向けて作るとしたら現地の観客よりもホロコーストに関する知識が少ないことも踏まえなくては、ひとつの物語の中でメッセージを完結させるならもっと悲惨さにフォーカスすべきでは、とも。その他にもあのキャラをああして、ここをこう整理して組み直したらどうなのか、いやわかりやすさを求めすぎてるのかな、みたいなことが延々と出てくる。脚本にただただ引き摺り込まれ圧倒されていた私には1ミリも芽生えなかった発想でひたすらに面白い。

夫はMARVEL以外の海外作品はそこまで好まないしな〜どうかな〜とは思っていたが(それでも誘ったのは、境界線というテーマが好きな人だからだ)こんなにも多角的に受け止め方が異なるとは予想しておらず、ごはんの後も家に着くまで互いの感想を掘り下げ続けることになった。着地点が何も見えなくても、思考を探り探り言葉にして、異なる受容体でどう味わわれたのかを知る、こういう時間はとても楽しい。他者の考えに触れると、自分の考えもアウトラインがすこしくっきりして見える。

 

言い知れぬ怖さの正体

そんな中でも強く意見が合致したのは、ジョンの不倫相手から妻となったアンの邪悪さだった。1回目鑑賞時の私は、当時抱えていた事情によりジョンへの感情移入が大きくて、嫌なタイプだなとは思いつつもそこまでアンを邪悪に感じていなかったように思う。ところが2回目、もう、圧倒的にアンが怖かった。徹頭徹尾(さりげなく)まちがっていて自己保身の名手なのはアンだった。ジョンをことごとく思考放棄へと誘導している。でも、なんというか、アンは不倫以外には何も名前のついた罪を犯していないのだ。外から見ているとこんなにも怖い存在なのに、明確に断罪できる行為がない。それがまた怖い。

1回目の感想を読んでくださった未鑑賞の方から「ハンナ・アーレントみたいだと感じた」と聞いて検索してみたら、たしかに根底にあるものがぴたりと合致していた。引用の引用になってしまうが、Wikipediaによると、ドイツ系ユダヤ人として第二次世界大戦を経験したハンナ・アーレントは「リアリティとは、『ナチは私たち自身のように人間である』ということだ。つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、彼らが疑いなく証明したということである」と述べている(「悪夢と逃避」『アーレント政治思想集成 1』)、らしい。この作品から感じる言いようのない怖さ、知らぬ間に心臓を握り込まれているような怖さは、まさにこれだ。アンは、ナチスのしたことを既に知っている観客にとって、ジョン以上にさりげなくて強烈なリアリティの装置になっている。

改めて「善き人」の作品紹介を見ると「ポリティカルスリラー」と記されていて深く納得した。大学の講義シーンが最たるものだが、ジョンが個人主義を利己主義とすり替えて声高に非難しているのも妄想と現実の話同様ブーメランになっていて、ジョンは自分をhappyに保つために、つまり利己的な動機によって全体主義に溶け込んでいく。たとえ歴史として学んでいても、今この瞬間に他の国で殺戮が行われていても、自分の身に降りかかるまでは他人事になりがちな気持ち。それこそがジョンと同じ道に繋がっているのだと、この枠組みに入ったらあなたもこうなるのではないかということを、恐怖を自然に湧き上がらせることによって提示される。だから心の奥底に直接触れられたような心地になるのだろう。これを書き上げたC. P. Taylorの熱意を思うと途方もない気持ちになる。

夫に言われて気付いたが、そういえばジョンは自分のことを自発的に「善き人」と形容してはいない。彼を"GOOD"と言っているのは冒頭のモーリスと、正当化を後押しし続けるアン。ジョンはアンに促されるようにして、最後にようやく自分たちふたりをGOODだと口にする。はじめとおわり、同じ"GOOD"という言葉が示す人間は残酷なまでに変容してしまった。劇中で繰り返される「僕に何ができる?」というジョンの台詞、何もできやしなかっただろう、と訴えかけてくる目。私もあの目をしちゃってるんだろうなと思う瞬間はいくらもあって、これから思考を放棄したくなるたびに、テナントさんを通して表されたあの目が、GOODってどういうことなんだっけ、あなたはどうあろうとするのだ、というプリミティブな問いを私の脳裏に引きずり出すのだろうな。

 

や、やっと書き終えられた……箇条書きでずらずらメモしてはいたものの、あまりに取り留めがなくて文章化するのにとても時間がかかってしまった。でも2回目を観る前にいったん記事を書いておいたのは我ながら英断だった。キャッチしたものがまったく違いすぎて、書いていなかったら記憶が更新されちゃってたと思う。

受け止めたもの、必ずしも言語化する必要はないと思っているのだけど、言語化・文章化の過程で得られる栄養は確実にある。たまには気合いで言葉として出力するのもいいものですね。