丁寧って、手間をかけるとか、ニアリーイコール時間がかかる、みたいなイメージ。とりわけ「丁寧な暮らし」とラベリングする時はほのかに高尚な風合いも加わるかもしれない。こまやかで穏やかで、それゆえに清らかでもあり、地に足をつけて、日々のちいさな幸せをひとつひとつ大切にする暮らし。
しかしながら、何かと丁寧に向き合うことは、要するに対象をつぶさに見つめるということで、同じ物事から受け取る情報量が増えるというだけのことなんじゃないかと気付いた。
足腰をひどく傷めたことで、身体について意識しているつもりで全然できてなかった(なんなら身体を置き去りにして生きてた)と思い知ったり、裁縫経験値が少しずつ上がってきたら布を構成する糸をきちんと見ることの重要性を感じるようになったり……で唐突にこう思い至ったのだけど、考えてみればジャムを煮るのが楽しいのは旬の果物を選んだり煮る時のなんともいえない良い香りをかいだり瓶に詰めてきらきらしてるのを眺めたりするのがどれも楽しいからで、完成品を買うことでは得られないことだからやりたくなる(買うのにもまた別の良さがある)。いろんな茶葉を集めて自分で淹れて飲むのも同じ。
ものすごくずぼらでだらしない生態なのに丁寧だと言われることが結構あって、嬉しさと、時には「丁寧」から脱却したいと思うこともありつつちぐはぐに感じていて、でもつまり私は受け取る情報量が増えることを楽しんだり面白がったりしているんだなーと捉えたらすこんとはまった。なんだろう、高尚な精神性から切り離せるじゃんと思えるからだろうか。時間がかかるのとイコールじゃないと思えるのも大きいかもしれない。実際ジャムを煮るのだってたいてい15分くらいだから(ことこと1時間くらい、のイメージない?)。
嫌なことってほどじゃないけど、心の隅っこで無意識にぎゅっとなってた気持ちがほどけた感じがする。ていねい、お呼びじゃないわという気分の時もまああるんだけど、こう考えてみると結構いいものだし、好き。心を縛らずに、好きな時に好きなだけ丁寧をやっていきたい。
辞書に載ってる言葉の意味の、その上だか奥だかに降り積もってる感覚の話。言葉は文化なのだなぁと改めて思う。