ねむみめも

ねむみめも

It's ineffable.

素朴だけどやみつきになる、味わい深いパンたち

飾り気のないパンが好きです。

長いこと、ひとりで食べ比べては心の中でひっそりとお気に入りを更新してきたのですが(そして時折興味のない夫に語ってはやや鬱陶しがられてきたのですが)、誰かに話したい衝動に駆られてここに記します。

 

1. ジャン・フランソワの食パン

焼かなくてもおいしい。何気なくこの食パンを買ったのがきっかけで、ずっと見向きもしてこなかった食パンを愛するようになりました。それまでは惣菜パンと菓子パンこそがパン屋さんの存在意義だと思ってた。店舗が増えて買いやすくなったのが嬉しいけど、夜は食パン売り切れてることが多い。みんな好きなんだね。

 

2. nukumukuのもちもち食パン

nukumukuで最初にどはまりしたのは塩バターパンと明太塩バターパン。かなりバターたっぷり塩気もたっぷりの罪な味だけど、とんでもなくおいしい。いくつも食べるうちに、このお店そもそも生地がおいしすぎるのでは……と気になって、ベーシックなパンも買ってみたら食パンが素晴らしかった。なんとなく、フランスパンの雰囲気を感じる食パンなんです。他にない味わい。

 

3. 濱田屋の豆パン

人気商品と書いてあるものの、豆大福好きじゃないしな〜としばらく買わずにいた豆パン。ある時ふと気になってひとつだけ買ってみたら、豆大福は好きじゃない私でも絶妙に射抜かれるハーモニーでした。豆の量がちょうどいいんだろうなぁ…。パン生地も豆もやさしいおいしさ、ほっとする。

 

4. ジュウニブンベーカリーのくるみパン

ケーキも焼菓子も甘いパンもうっとりするラインアップのお店なのだけど、このくるみパンは一度食べてみてほしい。くるみが惜しみなく入っていて、生地はもっちりどっしり、表面はぱりっとして食感が楽しい。カルピスバターとの相性が抜群。できることなら家に常備したい。(最近食べた時は形が変わって輪っか型になってました)

 

5. パン・デ・フィロゾフのバゲット

これを食べてからしばらく私の中でバゲット旋風が巻き起こりました。小気味いいほどの皮のばりばりザクザク感に中の軽やかなもちもち感、バゲットってこんなにおいしいものなの?という衝撃を受けた。料理に添えるというより、このバゲットを食べるために献立を考えたくなる。また食べたいなぁ。

 

バターリッチなパンや甘いパン、サンドイッチなどはまた別の機会に。

マットレスを打ち鳴らす

逃れられないプライベートなストレスが半年ほどのしかかり続けていて、でも身体のこともあってぱーっと発散させることも叶わず、ごくたまに少し出かけたりもするけれどそもそも時間を奪われるタイプのストレス源なのでやっぱりおでかけで解消しつくすこともできず、もう!やだ!と叫ぶことしかできなくなったのでやけっぱちで高反発ベッドマットレスをドンドコドンドコ叩いたらものすごく疲れるうえにだんだん何が何だかわからなくなって可笑しくなってしまった。

正座して、和太鼓奏者と荒くれ者を足したイメージで上半身を思い切り振り乱しながらマットレスを打ち鳴らす。全身運動になるのか身体もすこしすっきりするが、振動は吸収されてご近所さんの迷惑になることもない。叩きながら口でもドンドコドンドコ言うと賑やかだしさらに頭がはちゃめちゃになる。屋内型ストレス解消法として結構いいかもしれない。

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(友人宅で交流したボルゾイさん。心の癒し)

来年のテーマをふわふわと考えている

8年ほど前から、誰に言うわけでもない「今年のテーマ」を自分の中で持つようにしている。

年を経るごとに、秋頃から「来年はこれかな?」という言葉をぼんやりと探して、1〜2月頃にしっくりくるものが定まるというリズムになってきた。去年は秋になってから「今年のテーマこっちだったんだ」と気付いたのだけど、まあとにかくルールなどないのでゆるくやっています。

photo by 由貴さん

心の在り様にしっくりくる言葉を探す、それも今この瞬間だけじゃなくて来る1年に向けて、というのは、たぶんこうしてひとことにまとめた印象よりも効用が大きい。

心の中を覗いて検分してみることになるし、わけもなくいいなと思える言葉をいくつも集めるきっかけになるし、付随してやりたいことを整理することもできる。私は自分のための目標を立てて達成するのがうまくなくて、「できない」感覚にとらわれがち(短期的だったり、必要に迫られる状況に追い込めばいけるんだけどね、むずかしい)。でもテーマだと目標よりも大まかな指針になるので縛られる感覚がないのがいい。テーマからゆるゆると目標、行動に落としていくこともあれば、やりたいことをいくつか並べてみてテーマを思いつくこともある。

それから、物事が起きた後にも。ひとつひとつの出来事、反射的にへこんでしまうようなことにも自分なりの意味や繋がりを見つけやすくなって、思考のネガティブスパイラルにはまりにくくなる効果もある、気がしている。

今年の私は ゆるめる/release がテーマで、それは身体を思い切り壊してしまって筋肉をゆるめたいというのが大元にあったのだが、なんかね、まったくもって想像だにしていなかったほうからこのテーマを怒涛の勢いで後押しするようなイベントがやってきて、その瞬間は肉体的にも精神的にも辛くて必死でしかなかったけど後からふと「あれ? そういうこと?」と腑に落ちて。

しんどい事象もテーマに沿ってるなぁと思うとちょっと面白くて、自分で占いをしてるみたいな感覚。日々のゆらぎにも幾許か楽しさが宿る。これって認知機能がおおいに働いてくれてるおかげかな……(これ書いてて、もしかしていわゆる引き寄せってこれに似た仕組みかしらと思い至った。調べてみよ〜)。

毎年違うテーマを選ぶけど、ひとたび採用したテーマはなんとなく自分の中に馴染むので「来年はこのテーマは削除」とはならず、バックグラウンドにずっとある感じになります。それも結構気に入ってる。

来年は何にしようかな。いくつか候補は書き留めつつ、突然舞い込んでくることもあるからまだ余白を残してある。ちなみに、テーマとは楽しく戯れてるけど、自分のための目標を立てて達成するのはいまだにうまくありません。考え方次第のようにも思うし、最近あらためて立ち向かおうとしている自己肯定の諸々がボトルネックになっている可能性も感じています。もっと枷を解いていきたいな。

photo by 由貴さん

ほどく、ゆるめる、あるいは瘀血を吐き出す

誕生日の夜は、我ながら鬱陶しいところで思考が止まって面倒だった。

もやもやの多重奏をどうにか少しずつ言語化してみたら生きてる価値がないと結論付いてしまうのだが、さすがにそれをそのまま口から発するのは憚られる。

 

自己肯定感と自己効力感が地の底に届きそうなほどに低い。後者は時と場合によっては上昇するが、前者は絶望的に安定している。

この問題を、ここ数年は敢えて遠ざけていた。医師に「まずは原因を深掘りしようとしない方がいい」と言われたから。

この夏、こんなのどうしようもなかったじゃん、という遠い過去の事実が掘り起こされ、途方もない無力感とやるせなさに苛まれたのだが、今こそ問題に向きあう時なのだと言われているような気分にもなっている。

去年から抱えている身体の問題に向き合ううちに精神にも向き合える気配がしてきたところへ、否が応でも向き合わざるをえなくなる事件が起きて、しかし向き合う以前にとにかく現状への対処に奔走して疲弊した夏だった。まだそれが収束していなくて、精神が磨耗するのをどうにかなだめている。そんな中で、誕生日だった。かなしくてかなしくて、そういえば4年前も朝まで洗面所に座り込んで泣いてたんだったと思い出した。狭い家なので当然夫に見つかって、ほどなくして病院に通い始めた。あの時よりはましだけど、たぶん根底には同じものがある。

瘀血を吐き出すみたいに、心の奥底にびっしりと絡みついている問題の根源を取り除いてしまいたい。苦しさを伴うだろうけれど、ひとすじずつほどいて、ゆるめて。来年の誕生日を明るい気持ちで迎えられますように。

2年3か月前の日記

ながいこと下書きフォルダに眠らせていた日記です。

 

6/21(月)

久しぶりにオンラインレッスンをした。教えるほう。高校1年生の英作文、添削するにあたり私の知りうる全ての語彙を活用するのもきっとよろしくなく、平易ながらも使いやすい表現、読み聞きしたことはあるけど自発的には使ったことがないらしい単語を選び取っていく作業は結構頭を使う。しかしなにより、私にとって息をするみたいに当たり前になってしまっているが彼女にとってはそうではないこと、を見つけて解説するのが難しい。今回は、論旨を整理すること、論理という概念そのものだった。

ストレングスファインダーによると私は課題解決が好きらしい。たしかに目の前の問題の解き方というより学習へのスタンスや目標達成への道筋探索込みで、教える、あるいは提案するのはなかなか楽しい。正直、丁寧にケアしすぎているとは思うけれど、英語と戯れるのも楽しいし彼女のレベルアップを間近で見られるのも楽しいので、まあいいかと思っている。

 

6/22(火)

ボタンホールを手縫いで仕上げてみたくて、初めて糸巻きに巻かれた手縫糸を買った。ミシン糸みたいな見た目で、色の種類も豊富。

ミシン糸で手縫いするとあっという間に糸がくるくる捩れて絡まりがちなのがストレスフルなのだけど、これはミシン糸が左巻きに撚られていて、私が右利きだから起こる現象らしい。

で、手縫い用の糸は逆に右巻きで撚られている。教材セットに入っていたボタンつけ糸は使ったことがあるけど、この細さの手縫糸って使うのも初めてかもしれない。ホールの前にまずボタンを縫い付けてみたらほんとうにスイスイ縫えて感動した。変なところで結ばることがない。すごい…文明ってすごい…。

でも、ということは、左利きならミシン糸で手縫いしてもあんなに苛つかずに済むのだろうか。大変なこともたくさんあるのだろうけどちょっと左利きの人が羨ましい。

 

6/23(水)

ふるさと納税で入手したすももでジャムを作った。ジャムは、調理工程も目に楽しいし、瓶に詰めた姿がきらきら眩いし、長期間に渡って少しずつ食べ進められる。ひとたび作ると達成感が長続きするのでとても好きだ。食べるたびに作って良かったと思う。瓶が空っぽになる瞬間がたまらなくかなしくて、毎年もうちょっと多く作ろうと増やし続けて夫に呆れられている。

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今回使った小豆島のレッドスターという品種のすももは中の果肉まで赤く、ジャムにしたらルビーのように美しく仕上がった。味も、去年まで使っていた大石プラムとはまた違う甘酸っぱさ。他の品種でもジャムを作ってみたくなってきてしまった。

 

6/24(木)

ここのところずっと意識のふちに引っ掛かっていたこと。己の所業についての認知の歪みが甚だしいような気がする。前提として、私は自己をそのままするりと肯定するのがとてもへただ。できるようになりたいと思い始めて10年は過ぎた。幼少期から煮詰められきた思考の癖がなかなか抜けない。少しずつ灰汁の部分を除いていけてはいる、はず、だが、自分が楽にできて楽しいことを逃げで怠慢だと見なす感覚がいまだにある。頭ではわかってるし、他者がやっている分にはさっぱり何とも思わないんだけどな。

 

6/25(金)

4週にわたって受講していた福井大学のオンライン講座、「北欧アイスランドの歴史・文化・社会」の最終回だった。この1年でリモートのあれこれの普及が一気に進み、こうして気軽に遠方の講座を受けられるのはとてもありがたい。

実のところ、4回のうちいちばん興味のなかった今日の社会・政治分野が、結果的にいちばん面白かった。

 

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ものすごく尻切れとんぼだけど、下書きがここで終わっていた。アイスランド行きたいな。

「陳情令」薛洋のねじれについての覚書

ドラマ1周目の頃に頭が煮詰まった勢いで書き留めていたものです。この時点で原作も読了していたので混ざっているかも。

 

薛洋、凄まじいやり方で暁星塵を踏みにじるけれど、最期の飴にも表れているように3年間ずっと復讐心だけで過ごしていたとは思えない。「正義を自負し高潔を気取る」彼を陥れ、同じところに堕ちてくるのを待つことに喜びを感じると同時に、嘘で塗り固めた自分であっても彼と笑い合える時間は幸せだったんじゃないか。心の奥底では(自覚なんてないかもしれないけれど)嘘じゃない自分でこんなふうに幸せを享受したかったと願い、嘘によって生み出された甘やかな時間を僅かでも楽しんでいる自分のことを強烈に否定していそうだ。こんなもの嘘でしかないんだって。


・嘘なしにこんな奴が俺に笑いかけるわけがない

・なぜなら、俺はこいつにとって悪だからだ

・でも善行で世が変わるなんて嘘だ

・俺がこの世で生きていくにはこうするしかなかった

・だから俺は正しい

=こいつと笑い合って幸せだと感じるのはおかしい

=徹底的に踏み躙るのが正しいし、死んだのなら傀儡にして思い通りに動かせるから好都合だ

 

……ほんとうに?

(傀儡にしようとしたのは、ただ使役するためだろうか。動き話す彼がそばにいるひとときを作り直したい気持ちがひとかけらも無かったなんて、言い切れるだろうか)


ほんのすこしでも幸せだな、楽しいな、と思った瞬間にこのかなしい論理が感情を打ちのめす。己がほんとうに望んでいることにも気付くことができない、あるいは向き合うことができない。彼は、自分の妄執によって自分の心を否定し続けることでねじり切られた存在、なんじゃなかろうか。そしてこの自己否定を補強するのが宋嵐の存在なんだと思う。嫌というほど現実に引き戻される。

「嘘は信じたのに、本当のことは信じないのか?」は暁星塵への嘲り、皮肉でありながら、薛洋の願望も反映されているように思えてきてしまう。

 

薛洋の犯したことは明確に悪だし、報いを受けて然るべき人物。でも彼が指を轢かれなければ、あるいは傷めつけられた彼に手を差し伸べる人がいれば、まったく違う方向へ羽ばたけただろうにと思う。

金光瑶は手を差し伸べてもらえたけれど、その手に素直に着いていくにはもう傷付きすぎていて、薛洋と共鳴したんだろな。

もちろん彼らと同じような傷を負っても悪に走らない人もいるのだけど、傷付けられた人たちや弱い人たちが悪に走らないで済む世界は、藍忘機と魏無羨が目指している世界に重なる。

悪をくじき弱きを救う、天灯の誓い。


と考えると陳情令ほんっっっとに良くできてる〜〜〜〜!!!いやただの個人的解釈で妄想だけど、勘違いもあるかもしれないけど、永久機関のごとくあれこれ考え込ませてくれる陳情令そして魔道祖師ありがとう…墨香铜臭老师、多謝…。

 

ねじれの中に見え隠れするものを探すのも最高なのですが、薛洋が悪に染まらず幸せに才能を開花させまくるifが読みたいです。幸せルートで魏無羨と出会ったら絶対に盟友になれるよ、うわーーん!(ただし唯一の知己の座は埋まってる)(知己とは)

丁寧って

丁寧って、手間をかけるとか、ニアリーイコール時間がかかる、みたいなイメージ。とりわけ「丁寧な暮らし」とラベリングする時はほのかに高尚な風合いも加わるかもしれない。こまやかで穏やかで、それゆえに清らかでもあり、地に足をつけて、日々のちいさな幸せをひとつひとつ大切にする暮らし。

しかしながら、何かと丁寧に向き合うことは、要するに対象をつぶさに見つめるということで、同じ物事から受け取る情報量が増えるというだけのことなんじゃないかと気付いた。

足腰をひどく傷めたことで、身体について意識しているつもりで全然できてなかった(なんなら身体を置き去りにして生きてた)と思い知ったり、裁縫経験値が少しずつ上がってきたら布を構成する糸をきちんと見ることの重要性を感じるようになったり……で唐突にこう思い至ったのだけど、考えてみればジャムを煮るのが楽しいのは旬の果物を選んだり煮る時のなんともいえない良い香りをかいだり瓶に詰めてきらきらしてるのを眺めたりするのがどれも楽しいからで、完成品を買うことでは得られないことだからやりたくなる(買うのにもまた別の良さがある)。いろんな茶葉を集めて自分で淹れて飲むのも同じ。

 

ものすごくずぼらでだらしない生態なのに丁寧だと言われることが結構あって、嬉しさと、時には「丁寧」から脱却したいと思うこともありつつちぐはぐに感じていて、でもつまり私は受け取る情報量が増えることを楽しんだり面白がったりしているんだなーと捉えたらすこんとはまった。なんだろう、高尚な精神性から切り離せるじゃんと思えるからだろうか。時間がかかるのとイコールじゃないと思えるのも大きいかもしれない。実際ジャムを煮るのだってたいてい15分くらいだから(ことこと1時間くらい、のイメージない?)。

嫌なことってほどじゃないけど、心の隅っこで無意識にぎゅっとなってた気持ちがほどけた感じがする。ていねい、お呼びじゃないわという気分の時もまああるんだけど、こう考えてみると結構いいものだし、好き。心を縛らずに、好きな時に好きなだけ丁寧をやっていきたい。

 

辞書に載ってる言葉の意味の、その上だか奥だかに降り積もってる感覚の話。言葉は文化なのだなぁと改めて思う。

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